唱歌の歴史

このページは、唱歌が生まれた明治時代から現在までの「日本の歴史」と「唱歌」のかかわりについて記します。

1868年、明治新政府が成立し、日本は近代国家への道を歩み始めました。
しかし、長い鎖国を通し、日本は欧米から100年遅れてしまったと言われます。

政府は、この遅れを取り戻すため、いわゆる「富国強兵策」を掲げ、国を挙げて、殖産興業・軍備増強に取り組みます。
この中、教育の大切さが叫ばれ、1872年(明治5年)に政府は学制を発布しました。
唱歌の時間はこの時、教科の一つとして設けられたのです。

わが国初めての唱歌の教科書の中にもこの「富国強兵策」の動きがうかがえます。

1881年(明治14年)の小学唱歌集初編にある「蛍の光」の歌詞を次に掲げます。
1番と2番は現在でも歌われますが、3番・4番の歌詞から、当時の明治政府の思いを感じ取ることができます。

蛍の光 蛍の光 (2分27秒) 演奏
一、
ほたるのひかりまどのゆき 書よむつきひかさねつつ
いつしか年も すぎのとを あけてぞ けさは わかれゆく
二、
とまるもゆくも かぎりとて かたみにおもう ちよろずの
こころのはしを ひとことに さきくとばかり うたうなり
三、
つくしのきわみ みちのおく うみやまとおく へだつとも
そのまごころは へだてなく ひとつにつくせ くにのため
四、
千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり
いたらんくにに いさお しく つとめよ わがせ つつがなく

そして、時は進み、1894年(明治27年)の日清戦争、そして、1904年(明治37年)の日露戦争と、日本は、欧米帝国主義の流れにのまれ、2度の戦争を経験することになります。

当然のことながら、唱歌も戦争を支える内容となりました。
一つの例として、1899年(明治32年)に発表された「青葉茂れる桜井の」をみてみると、こんな内容になっています。

青葉茂れる桜井の 青葉茂れる桜井の (2分02秒) 演奏
一、
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
二、
正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷へ
三、
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
四、
いましをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為め
五、
此一刀は往し年 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
六、
共に見送り見反りて 別れを惜む折からに
復も降り来る五月雨の 空に聞こゆる時鳥
誰れか哀れと聞かざらん あわれ血に泣く其声を

南北朝時代の戦乱を語ったもので、表紙には、「 学校生徒行軍歌 湊川 」と記されています。

多くの人に今も愛唱されている歌に「われは海の子」がありますが、7番の歌詞を見ると、この歌も時代の流れを反映したものと言えます。

「われは海の子」は、1910年(明治43年)に発表されました。

われは海の子 われは海の子 (2分00秒) 演奏
一、
我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ
二、
生れてしおに浴して 浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり
三、
高く鼻つくいその香に 不断の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く
四、
丈余のろかい操りて 行手定めぬ浪まくら
百尋千尋海の底 遊びなれたる庭広し
五、
幾年ここにきたえたる 鉄より堅きかいなあり
吹く塩風に黒みたる はだは赤銅さながらに
六、
浪にただよう氷山も 来らば来れ恐れんや
海まき上ぐるたつまきも 起らは起れ驚かじ
七、
いで大船を乗出して 我は拾わん海の富
いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国

日本は、この後、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争と、長い戦争の時代が続きます。

そして、1945年(昭和20年)に戦争が終わり、音楽の時間も新しくなりました。

戦争を肯定するような内容の歌は教科書から削除されましたが、これまで歌われてきた多くの歌が新しい教科書に引き継がれ、人々に愛唱され、今に至っています。

テーマ特集/テーマ一覧へ戻る