フォスターの生涯とその歌曲 その3 (25歳から没37歳まで)

フォスターの音楽に変化が

スワニー川
1851年、25歳の時、フォスターは、「故郷の人々」を作曲します。

このころから、彼の音楽に変化が現れました。おどけた歌詞で黒人をからかうことを止めようとしていることがわかります。
悲しみの曲想を求めるようにもなりました。

黒人奴隷を差別することの罪悪感がアメリカ国民の一部に出てきたのもこのころです。

故郷の人々  ⇒  歌詞掲載ページ Old Folks at Home

このころのフォスターの曲に、「主人は冷たい土の中に」「なつかしきケンタッキーのわが家」などがあります。

主人は冷たい土の中に  ⇒  歌詞掲載ページ Massa's in De Cold Ground

なつかしきケンタッキーのわが家  ⇒  歌詞掲載ページ My Old Kentucky Home

フォスター、ニューヨークに

街

フォスターは、27歳になりました。
彼は、出版社の勧めで独りニューヨークに出ました。

この時は、1年して、彼は、ピッツバーグの妻子のもとへ戻ります。

ピッツバーグに戻ったフォスターは、名曲「オールドブラックジョー」「やさしきアニー」など、多くの曲を作ります。

オールドブラックジョー  ⇒  歌詞掲載ページ Old Black Joe

やさしきアニー  ⇒  歌詞掲載ページ Gentle Annie

そして、1860年、34歳の時、フォスターは、ジェーンとマリアンと共に、再びニューヨークに出ました。

しかし、大都会ニューヨークの空気は、フォスターの性格に合いません。

大都会、ニューヨークでどん欲に楽譜を売り、収入をあげることが求められましたが、フォスターにはそれができず、収入は減っていきました。

これに、追い討ちをかけるように、世の中が劇的に変化していきます。奴隷制にかかわる論争が増えてきました。

アメリカの北部州と南部州の対立が、黒人奴隷制の是非という形で激しくなっていきました。


1861年、フォスターが35歳の時、南北戦争が始まります。
ミンストレルョーの歌曲で名声が高かったフォスターは、ヒットを手にすることができなくなったのです。

収入が激減、妻ジェーンはニューヨークを離れ、親戚に身をよせました。
この後、フォスターは、酒におぼれる生活を送るようなり、胸の病気におかされてしまいます。

洗面所で倒れたフォスターは、1864年1月、静かに息を引き取りました。
37歳でした。

彼の死後、最後の作品である「夢路より」が出版されます。

夢路より  ⇒  歌詞掲載ページ Beautiful Dreamer

南北戦争が終わり、アメリカ合衆国が発展する中、フォスターのメロディーは、再びアメリカの人々の心に中に戻ってきました。

フォスターのメロディは、平易で、誰でもすぐに覚えることができます。
こんなフォスターのメロディーは、アメリカのみならず、世界の人々の愛唱歌となりました。

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